ちょっと前まで、自分自身一生懸命にアイディアを考えたりもしていた「ビジネスモデル」、という言葉に最近、自らちょっとだけ違和感を覚えるようになってきたのです
「ビジネスモデル」という言葉の印象は、例えば世の中の人々がパソコンでワンクリックするごとに自動的に数円が収入として入る、とかあるいはフランチャイズチェーンのようにブランドを作り上げてその旗本で本部にはロイヤリティだけが入ってきてリスクは背負わないとかetc.
とにかく最初大きな初期投資をしてパターンをつくりあげたら後はブランドイメージ広告などの広告費をかけ続けさえすれば自動的にお金が入ってくる、つまり後はラクだ・・・
「ビジネスモデル」というワードは僕ちゃん的にはそんなイメージのものだったのです
宮崎こどもの国でラクダに乗った小学校5年生の僕ちゃん
でも現在のどのビジネスモデルを観てもやっぱり大きければ大きいほどこんなに速い上にドラスティック(劇的)に変化をしていく国内の経済環境を観ていると今一度「商売の原点」に帰るのが一番正解なのではないか?と感じてきたのです
例えばアメリカなんかの自由資本主義経済においては、今までは確かにこうしたビジネスモデルをつくりあげてはそれで巨額の富を得て、そのモデル自体を売却しキャピタルゲインを得て、また再びその資本を元手に新しいビジネスモデルをつくりあげておなじサイクルを繰り返して大富豪になっていく...みたいなものがアメリカンドリームの一つの形だったのかもしれませんが、少なくとも日本国内におきかえて観察すると、今まで本当にひとからげだった日本人の価値観や幸福感が多種多彩・多様に、それもものすごいスピードで変化をし始めると、少なくとも日本市場くらいのスケールにおいては、そのビジネスモデル自体の寿命の期間がどんどん短縮していくような気がするのです
逆にそんな大きな流れの中で一つのビジネスモデルの継続使用にこだわり続けると経営者としては魂まで抜き取られかねないほど自分の中で人としての哲学やポリシーを貫けなくなるような気がするのです
アメリカのラクダといえば、なんといってもプロレス技「キャメルクラッチ」、多分モスリムであろうザ・シークの得意技でしたよね
「多くの人と同じだったら安心だ」とか「楽して平穏に過ごせる大企業や公務員が安心」という価値観の時代はすでにほぼ終わっている気がするのです、だって自分自身の力ではどうにもならない枠組みの中でしか行動できない、表現を変えると自分がいくら能力があっても時代の流れの変化でその枠組み自体の存在を突然断たれてしまう可能性が高くなっていくということですものね
実は昨夜の小学校の同窓会で東京で大学を卒業後国内の証券会社からモルガンスタンレー、ゴールドマンサックスと渡り歩き今でもその道の権威と言われる友人がはっきりと「金融経済は完全に終わった」と明言していたのをきいて、なんだか確信を持ってしまったのも事実なのです
その意味でもこれからの日本経済は多分「クラスターマーケットの時代」が来る、いやある意味においては戦後の混乱期のような多くの人々にとっても再びチャンスが巡ってくるそんな時代が巡ってくる気がするのです、そしてそんな時代に求められるものは月並みだけど人間力やその人の人生観といった個々人の「力」そしてそれを結集することのできる環境を持った企業だと確信するのです
これからの時代、むやみにスケールを求め続ければ求め続けるほど会社はどこに行ってしまうのか、いったい誰を幸せにできるのか解らなくなっていく気がしませんか?
その意味では大企業のあり方も「プロトタイプ(基本形)」の人間を大勢抱えるよりも多彩なキャリアや多くの視点・考え方を持つ人が共存できる組織となるべきだったり、あるいは大企業に入って出世競争を戦うより、同じストレスなのだったら一生自分を変化させ続け高めていける「起業」を考えたり、さらに企業も大小ではなくそんな環境を作れる職業の方がずっと生涯やりがいもあり人生を充実させて楽しめる、そんな時代に代わっていくのだとも言えるかもしれませんね
もちろんこれからも日本国を代表する大企業にはそれなりの高度でスケールの大きいステージがあり、そんなところで戦う人材も相変わらず必要なのは当たり前ですが、我々中小零細企業の経営者はいろいろな人材たちが自己実現を出来る「職場」を創ることが仕事となっていく、そんな経営者としてのビジョンと力量が必要となってくるということかもしれません
けっしてラクではなく大変だけど、楽しみな、そして小粒でも本当の力が試され評価される面白い時代になってきそうなのです!!
- 2012.09.30 Sunday
- 社会・政治
- 01:42
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- by なりブー