3月も終わりとなり、いよいよ新学年、新学期のスタートの時期となっていきますが、日本国内では、学校教育問題が重要な事項として取りざたされるようになってから、ずいぶんと久しい気がします。
でもあまりこれと言ってカリキュラムや制度が劇的に変わったとか、改善されたという話も聞かないし、相変わらず世の中では、社会経験も何もない二十歳そこそこの若者が「自分に合った職業を探す」なんていう信じられない高飛車な考えで結果フリーターやニートなんて、なんのキャリアも積むことのできない社会の吹きだまりにたむろしていて、どうにもやりきれない気分がぬぐえません。
(それにしても、こんな分析って真面目にやる方が奇異じゃないですか?)
たとえばオランダでは日本の年齢でいうと、中学校2年生で自分の職業に狙いを定めそこから一般教養と同時進行で職業専門家としての人生を歩いていきます。かたや日本では「Occupation」つまり自分の人生の大半をオキュパイド(:占領される)する職業を就学年齢を終えても選べない、いや選ばない若者がいっぱいいるということは、その学生としての教育プログラムの中で何かが欠けているのではないでしょうか?
その教育プログラムの指針となる日本の教育基本法の第1章の第1条に「教育は、人格の完成を目指し平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と書いてありますが、これではハートも人としての哲学も感じられないのは僕だけでしょうか?
文部科学大臣や省庁の官僚たちは「民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民」と一番かけ離れた人々に見えるのですが・・・
人として一番肝心なのは自分の姿を常に照らせる鏡を持った信仰心とそれに基づく哲学そしてそれから派生した身心ともに健康な状態だと思うのです。わが国では「信仰心」とか「宗教」とかいう表現をするとちょっと「宗教家」的なにおいを感じてしまうので、誤解を招きがちですが・・
つまり、この文部科学省のお偉いさんが考えた教育基本法は一番肝心な始まりの部分がないということだと思うのです。多分、この文言を考えた人々は精神的な回帰原点である学校の哲学やモットーといった一番肝心な教育を受けられなかった、ほとんどおそまつな教育環境でしか勉強できなかった、あるいはそんな感性しか持ち得なかった人々なのでしょうね。
僕は教育の世界においても、今のようなつまらないお偉いさん方からの芯のないトップダウンの教育方針なんかの下での教育より、鹿児島から世界に直接飛び出せるような立派な思想と知識そしてハートを持った地方独自の教育カリキュラムに期待をするのです。
決して「田舎者がいい」と開き直っているのではありません、今の文部科学省よりはもっとましな教育環境を地方でも創れるはずだと言っているのです。
鹿児島における私学一貫教育の役割は大変だけれども大きいものがあります。その意味において僕はひそかに「鹿児島らしい」ではなく「鹿児島なのに鹿児島ならでは」といわれる教育環境を、地元鹿児島の私立一貫教育体勢で素晴らしい人材を育てられる可能性を秘めた「津曲学園」さんにとっても期待しているのです。
でもあまりこれと言ってカリキュラムや制度が劇的に変わったとか、改善されたという話も聞かないし、相変わらず世の中では、社会経験も何もない二十歳そこそこの若者が「自分に合った職業を探す」なんていう信じられない高飛車な考えで結果フリーターやニートなんて、なんのキャリアも積むことのできない社会の吹きだまりにたむろしていて、どうにもやりきれない気分がぬぐえません。
(それにしても、こんな分析って真面目にやる方が奇異じゃないですか?)
たとえばオランダでは日本の年齢でいうと、中学校2年生で自分の職業に狙いを定めそこから一般教養と同時進行で職業専門家としての人生を歩いていきます。かたや日本では「Occupation」つまり自分の人生の大半をオキュパイド(:占領される)する職業を就学年齢を終えても選べない、いや選ばない若者がいっぱいいるということは、その学生としての教育プログラムの中で何かが欠けているのではないでしょうか?
その教育プログラムの指針となる日本の教育基本法の第1章の第1条に「教育は、人格の完成を目指し平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」と書いてありますが、これではハートも人としての哲学も感じられないのは僕だけでしょうか?
文部科学大臣や省庁の官僚たちは「民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民」と一番かけ離れた人々に見えるのですが・・・
人として一番肝心なのは自分の姿を常に照らせる鏡を持った信仰心とそれに基づく哲学そしてそれから派生した身心ともに健康な状態だと思うのです。わが国では「信仰心」とか「宗教」とかいう表現をするとちょっと「宗教家」的なにおいを感じてしまうので、誤解を招きがちですが・・
つまり、この文部科学省のお偉いさんが考えた教育基本法は一番肝心な始まりの部分がないということだと思うのです。多分、この文言を考えた人々は精神的な回帰原点である学校の哲学やモットーといった一番肝心な教育を受けられなかった、ほとんどおそまつな教育環境でしか勉強できなかった、あるいはそんな感性しか持ち得なかった人々なのでしょうね。
僕は教育の世界においても、今のようなつまらないお偉いさん方からの芯のないトップダウンの教育方針なんかの下での教育より、鹿児島から世界に直接飛び出せるような立派な思想と知識そしてハートを持った地方独自の教育カリキュラムに期待をするのです。
決して「田舎者がいい」と開き直っているのではありません、今の文部科学省よりはもっとましな教育環境を地方でも創れるはずだと言っているのです。
鹿児島における私学一貫教育の役割は大変だけれども大きいものがあります。その意味において僕はひそかに「鹿児島らしい」ではなく「鹿児島なのに鹿児島ならでは」といわれる教育環境を、地元鹿児島の私立一貫教育体勢で素晴らしい人材を育てられる可能性を秘めた「津曲学園」さんにとっても期待しているのです。
- 2009.03.31 Tuesday
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- 00:58
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- by なりブー